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聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒  St. Simon et St. Juda Ap.  祝日 10月 28日


 聖書を見れば、主が公生活に入られて諸所を遍歴、さまざまの奇蹟を行い、世人を驚倒せしめ、ナザレトに帰郷、ここかしこの会堂で教えを宣べ給うた時、人々は感嘆して「あれは職人の子ではないか?あの母親はマリアといい。あの親戚はヤコボ、ヨゼフ、シモン、ユダなどという者ではないか?そういう身分の彼があんな深い智慧や奇蹟を行う力を、一体何処で得て来たのだろう?」と語り合ったとあるが、この言葉から一つの興味ある事実が判明する。それは外でもない、主が使徒と選び給うた12人の中ヤコボ、ユダの二人が主の親戚であったという事である。もちろんこのユダは主を敵の手に引き渡したあのイスカリオテのユダとは別人で、それと区別するためタデオ(勇者)とあだ名され、またヤコボはヨハネの兄の同名の使徒大ヤコボと異なり、世に小ヤコボと呼ばれている人である。
 右の二人は聖ヨハネがその聖福音書に記している聖母の御親戚、クレオファの妻マリアの子供であった。故に彼等は二人ともイエズスの従兄弟に当たっている。
 この中、小ヤコボは永らくエルサレムの教会を指導し、西暦62年キリスト教を憎むユダヤ人等に神殿の屋上から突き落とされ、棍棒で打ち殺されて殉教の栄冠を得た。これは歴史的に確実な事であるが、他の二人の、聖霊降臨後の動静についてはあまりよく知られていない。
 とはいえ、ユダ・タデオがその後ユダヤの国で主の聖教を宣べ伝え、信者を牧したことは間違いあるまいと思われる。何となれば、新約聖書に収めてある彼の書簡は、パレスチナのユダヤ人キリスト信者の教会に宛てられているからである。彼はその中で、当時ようやくここかしこに現れ始めた異端者に就き信徒の注意を促し、その謬説に惑わされぬよう誡めているが使徒の首領ペトロさえ、ローマの信者に送った書簡中にその戒告を用いているのを見れば、いかにユダ・タデオの垂訓が適切なものであったか知ることが出来ると同時に、また彼の筆致がさながら警世の預言者の如きを見ても、その信仰の熱烈さが窺われる次第である。ちなみにこの書簡はエルサレム滅亡の前に書かれたものであるらしい。伝説によれば聖ユダは、アラビア、シリア、メソポタミア、ペルシャまで布教し、最後にペルシャで殉教したとされている。



 次に聖シモンはマタイとマルコの福音書によるとカナン人であった。彼の身の成り行きに就いてはさまざまの伝説があり、いずれを真とすべきやを知らないが、本日聖ユダ・タデオと共に之を記念するのは、彼同様ペルシャ方面に布教したと言い伝えられているからである。なお聖書中に彼がゼロテ(熱心者)とあだ名されているのは、彼がモーゼの律法を守るに甚だ熱心であったに因る。
 シモンは最後にのこぎりで引かれて殉教したという。それで彼の肖像にはのこぎりを手にしている様を描くのが普通である。
 主は嘗て「まことにまことに汝等に告ぐ、麦の粒地に落ちて、もし死せざれば唯一つにして止まるももし死すれば多くの実を結ぶ」と仰せられたが、タデオにせよシモンにせよ、身命を抛つまで聖教の弘府に力を尽くし、以て数多の霊魂を救ったのは、実に右の聖言に適った偉大な犠牲の英雄と言わざるを得ない。その勲功が如何に輝かしいものであるかは、今青史にあとを留めぬとは言え、「世あらたまりて人の子その光栄の座に坐し給い、使徒達もまた12の座に坐してイスラエルの12族を審く」時に至って明らかになるであろう。


教訓

 使徒聖ユダや聖シモンの如く一心に主の御為に働いて、しかも何人にも知られず生涯を終わる事は、少しでも利己心があり、名誉欲ある者には耐えられぬ淋しさであるかも知れない。けれども主の御光栄をのみ心がけて己を捨て去っていた聖使徒には、それだけで既に言い尽くせぬ大満足大歓喜を覚えていた事であろう。力の限り働いて成敗は主の御旨に委ね、露ほども利己を求めぬ安らかな心境、それは我等凡人の一朝にして至り難い境地に相違ないが、右の両使徒を鑑として、一歩でも之に近づくように努力したいものである。